書評

生産性とは、罠なのだ。

こんにちは。ケンゴンです。

『限りある時間の使い方』オリバー・バークマン 著(かんき出版)が今回の本です。
今回は「である調」で書いてみました。そんな気分でした。

帯に人生は「4,000週間」と書いてある。どうやらそうらしい。
これをたったこれだけと考えるか否かは主観次第。
自分は、短いとも思わないし、長いとも思わない。

人類誕生からこれまでの年月に比べれば一瞬のように短いが、
寿命1日のカゲロウと比べれば途方もなく長い。
長くても短くても、時間が限られていることは確か。いつかはみんな死ぬ。

ならばその時間を有効に使えていると感じられた方が快であり、楽しいだろうなと。
そんな事を思って手に取った本。

さて、その時間を有効に・・と、「有効に」とはなんぞやと考える。
タスク処理の最適化を図り、より多くのタスクをこなすこと、ではない。
もっと仕事を、もっと多くの会議に出席し、もっと多くの習い事に子供を連れていき・・・。
その先に幸福は恐らく、ない。
だが、最適化を図り、生産性を上げることは善であると考えていた。

生産性とは罠なのだ、と著者は言う。
効率を上げれば上げるほど、ますます忙しくなる。タスクをすばやく片付ければ片付けるほど、ますます多くのタスクが積み上がる。人生で本当にやるべきことをやり始められる日はいつまでたっても、やってこない。

そう考えたときに浮かんだのは人生に余白がほしい。ということ。
何もしない時間が欲しい。増やしたい。
無心にぼーっとするのもよいし、あてもなく物思いに耽ったり、瞑想するのもよい。

余白が欲しい。
これは怠けたい、というよこしまな後ろめたい欲求ともまた違う、気がするし、そう思いたい。人生をどう過ごすかを考えた時に、余白を楽しみたいと思う。余白を作り出す為に、不要な時間、労力はカットしたいそんな思いから、ライフハックに興味がある。空いた時間に、より多くの活動を新たに詰め込む為ではない。

そんなことを考えながら読み進めていくと、余白とは表現が少し異なるなるが、
「余暇」について書かれた一節があった。

古代の哲学者にとって、余暇は何かの為の手段ではなく、あらゆることの目的そのものだった。アリストテレスは、真の余暇(それは彼にとって内省と哲学的思索を意味していた)こそが、あらゆる美徳の中で最高のものだと論じている。なぜなら余暇は、それ自体以外に目的を持たないからだ。戦争で勇敢に戦うことも美徳だが、それは勝利という目的の為の手段にすぎない。

すなわち、余暇は目的であって手段である行為ということだ。
人は何かを目的に据えたときに、手段が必要であるが、その手段自体を快として楽しむという発想が乏しい。手段の大概は辛く、苦をともなうものと考えがちであり、故にそう感じていると思う。
目的=手段となっていて、それが快である行為、それが余暇なのだ。

また、これは目的ではなく手段としての余白の使い方になるとは思うが、急にふとリビドー(性的な意味ではない)が沸き起こり、やりたいことが衝動的に出てくる事もあるだろう。それが仕事であったり、遊びであったりしても、思い立ったらイマすぐに、もしくは明日にでも行動に移せるようなバッファが常に欲しい。そんな意味でも余白を常にもっていたい。

この本はとても読みやすい。訳者の方が優秀な方なのだと思う。
洋書の翻訳本は、言い回しに直訳感がある本が多くて読み辛い印象が強いが、この本は殆ど読み辛さを感じさせない。日本人の著作であると、言われても多分気づかないかもしれない。

兎に角、この本は、心に刺さる内容がとにかく多い。
数え切れない。正直、食傷気味である。

刺さる内容が多すぎて、それが逆に本書の欠点だと思う程だ。その魅力的な全ての内容を意識して、日々の行動に活かすことは不可能であると思うと、絶望感を感じる。

多くを読んでも、その大部分は悲しくも忘れてしまう。いくらメモに書き留めて見返そうと思っても、だ。見返すことはほぼ無い。でも見返したいとは思っている。でも、見返すことはほぼ無い。

でも見返したい。
そんなスゴ本である。

以上、ケンゴンでした。
それではヒュッゲな一日を